History of Women's Dress in France

1800 - 1899

この記事は数冊の書物を参考に書いた「19世紀フランスの女性のドレスについて」です。

なお掲載している画像は全てパブリックドメインのものです。著作権の関係でご紹介できない画像に関してはご了承下さい。

19世紀のフランスは激動の時代を歩んだこともあり、ファッションにもその影響が見られるものが多数見受けられます。

産業革命によるミシンの導入、シャルル・フレデリック・ウォルトによるオートクチュールの誕生、そして女性服の改良運動等々、時代の変化やファッションリーダーと謳われた女性たちの存在に伴い、個性豊かな美しい衣装が誕生した19世紀のファッションをご紹介するにあたっては、まずこの頃の歴史をざっと振り返っておく必要があるでしょう。


以下の文はフランス革命期も含む、19世紀フランスの歴史の大まかな流れです。

○フランス革命


ルイ16世統治下のフランスでは、ルイ14世時代からの遠因、1775年のアメリカ独立戦争へのフランス参戦による財政負担、そしてマリー・アントワネットの過大な出費などによって財政危機に直面していた。これらの出来事により平民は多大な税金を担うことになり、聖職者や貴族といった免税特権を持つ階級への不満が増大する。
財政危機を免れる為にルイ16世は特権階級にも税負担を要求するために三部会を開催したが特権階級が抵抗したことによって行き詰まり、1789年に怒り心頭となった民衆がバスティーユ牢獄を襲撃したことを機にフランス全土が騒乱の場と化す。
国民議会によって「自由、平等、博愛」の精神を謳ったフランス人権宣言がなされ、当初は穏健な政治家たちによって革命が指導されていたが、革命の波及を恐れるヨーロッパ各国が革命政府に干渉、反発した革命政府との間でフランス革命戦争が勃発する。

 


○第一共和制


1792年に王政廃止と共和制の樹立が宣言され、国民公会の判決によりルイ16世は処刑される。国民公会の中ではこれ以上革命の進行を望まないジロンド派と急進的なジャコバン派に分かれており、両派の間には深い溝があった。
後に実権を握ったジャコバン派はジロンド派を国民公会から追放。ジャコバン派を代表する革命家ロベスピエールは反革命派、王党派、そしてマリー・アントワネットを次々と断頭台へ送る恐怖政治を行う。
しかし独裁政治への不満を抱く民衆が増え、支持を失ったロベスピエールは失脚。民衆の手によって処刑されたロベスピエールの後、穏和共和主義者により総裁政府が成立する。
1799年、民衆が社会の安定と平和を願う中、イタリア遠征やエジプト遠征によって名声を確立した軍人ナポレオンがクーデターによって総裁政府を打倒、新たに統領政府が樹立されナポレオンは第一統領となる。

 


○第一帝政


ナポレオンの天才的な軍事能力が認められ1804年、国民投票の追認も経てナポレオンは皇帝の座に就く。ナポレオン政権の存続の絶対条件は戦争に勝ち続けることであった。ナポレオン戦争によって不敗の皇帝としての地位が確立されたが、ライプツィヒの戦いで敗れ1814年に退位し、エルバ島へと流される。
この頃オーストリアの外相メッテルニヒによってウィーン会議が開催され、これはヨーロッパをナポレオン戦争以前(正統主義)に戻すことを概念とした会議であった。
これによってフランスにはブルボン家が復活する。しかし1815年ナポレオンがエルバ島から脱出し復位するも、ワーテルローの戦いで敗れ再び島流しにされることになる。

 


○復古王政


ブルボン家が復活したことにより、ルイ16世の弟がルイ18世として即位する。(ナポレオンの百日天下の際には亡命していた。)
フランスは再び君主制となるが、過去の旧体制のままではなく立憲君主制であり、法の下の平等・所有権の不可侵・出版や言論の自由など、完全なる身分制社会には復活しなかった。
後にルイ18世が死去し新たにシャルル10世が即位すると、過去の特権階級たちを優遇する政策を取り始めた。この事から王への反発が高まり、ついには1830年七月革命へとなった為、ギロチンを恐れたシャルル10世は退位することとなった。

 


○七月王政


1830年7月、自由主義者であるオルレアン家のルイ・フィリップが自由主義者や大資本家、銀行家をはじめとするブルジョワジーに擁立されて新たにフランス王として即位する。政治体制は立憲君主制が採られたが、実際の所大資産家にしか政治への参加は認められなかった。平民たちはこれに反発したが政府が抑圧したため、これが二月革命が起こる要因となった。そして1848年の二月革命によりルイ・フィリップは退位する。

 


○第二共和制


二月革命によって再び樹立された共和制では、当初ブルジョワ共和派と社会主義者が連携していたが、国立作業場(失業した労働者に職を与える公共事業)の存続をめぐって対立が起き、1848年4月の総選挙によって社会主義者が大敗したため、国立作業場が閉鎖されることとなる。これが六月蜂起の引き金となったが後に鎮圧された。
しかしこの一件によりブルジョワジーは社会主義者に自身の立場が脅かされることを恐れて、これ以上は革命を求めず保守化した。これにより市民革命は幕を閉じることになる。ブルジョワジーや平民たちは政治的混迷を収拾しつつも市民革命の諸成果を保持する強力な指導者を求めていた。そして1848年12月の選挙にてナポレオンの甥であるルイ・ナポレオンが大統領に選ばれたが、議会との対立を深めた為、1851年に国民投票によって皇帝ナポレオン3世へと即位する。

 


○第二帝政


ナポレオン3世はパリ大改造計画や、フランス各地に鉄道を敷くなどして大規模な工業化を促進し、これは失業者たちの救済にもつながった上、ブルジョワジーの期待にも応えることとなった。
しかし華々しい成功も長くは続かず、1860年代ではメキシコ出兵の失敗で威光が失われ、そして自由貿易を行った為にイギリスからの工業製品流入にさらされ、国内産業が打撃を受けた。さらにプロイセンのビスマルクによるエムス電報事件により反独世論が高まり、世論を自らの権力正当化の基盤としていたナポレオン3世は1870年普仏戦争に突き進むが惨敗し、プロイセン軍に捕らえられて退位へと追い込まれた。(普仏戦争を機にプロイセンはドイツ帝国となった。)

 


○第三共和制


普仏戦争により皇帝がいなくなったフランスでは1871年まで臨時政府が政権を握っていたが、王政復古や帝政の復活を望む勢力もあり安定しなかった。
1871年3月には労働者が権力を握ったパリ=コミューン(社会主義政権)が樹立したが臨時政府軍によって鎮圧され、1875年の第三共和国憲法によって正式に第三共和制が発足した。
普仏戦争後、50億フランの賠償金やアルザス・ロレーヌ地方の譲渡などでフランス国民において根強いドイツへの復讐心が存続していた。フランスの復讐を警戒したビスマルクはオーストリア、イタリアと三国同盟を、ロシアとは独露再保障条約を結びフランスを完全に孤立化させた。
しかしフランス国内では、このような不安定な対外情勢であったにも関わらず、産業革命が進んでいた為、ボン・マルシェ百貨店に象徴される都市の消費文化が栄えていた。普仏戦争後から第一次世界大戦までの期間はベル・エポック(美しき時代)と呼ばれ、多くの見本市や博覧会を開催し、世界の「大都会」の一つとして発展した時代であった。
(第三共和制は1940年のナチス・ドイツのフランス侵攻まで続いた。)

これからご紹介するのは古代ギリシアを理想とする古典様式が盛んだった第一帝政期の頃、大きなパニエ入りのドレスなどといった王政時代の名残が伺えるものは全て否定された時代です。


古代ギリシアの衣装を思わせるシュミーズ・ドレスは、まだマリー・アントワネットがフランス王妃として君臨していた時代から既に愛用され、古典様式が流行していたイギリスからの影響、そして東方貿易によってインドから輸入されたモスリンなどが、ファッションに敏感なフランスの女性たちの心を魅了した要因でしたが、やがてフランス革命へと時代が変わり、古代ギリシアの民主制が望まれるようになると、シュミーズ・ドレスの存在が理想的なものとして受け入れられ、フランスの女性たちはサテンやタフタからシンプルなモスリンへと、それまでのひたすら華やかだった宮廷衣装は王政の象徴として姿を消します。


第一帝政期のファッション界を代表する人物といえば皇帝ナポレオンの后ジョゼフィーヌや、当時の社交界の花形とされるジュリエット・レカミエなど、彼女たちの姿は多くの肖像画に残されていますが、シュミーズ・ドレスを纏ったその佇まいは、まさに古代ギリシアの大理石像そのもの。当時の女性達が神話の女神やニンフに成りきっていたことを物語ります。

No.1 ジャック=ルイ・ダヴィット 「レカミエ夫人の肖像」 - 1800年

銀行家の妻であるジュリエット・レカミエ。その美貌は数多くの男性を虜にしたと言われ、特に作家シャトーブリアンとの熱愛は有名である。

簡素なシュミーズ・ドレスを纏い無造作にカールさせたベリーショートにヘアバンドを巻いただけという彼女の姿は

まさに古代ギリシアの大理石像や壁画を彷彿とさせる。

長椅子に燭台、足台にも古代ギリシアを理想とする古典様式の影響が見られる。

シュミーズ・ドレスの特徴を挙げるとすれば、筒型のシルエット、極端なほど高いウエストライン、足に纏わりつく薄い布地で、身体美を強調するために下着は最小限しか身に着けなかったと言われますが、しかしコルセットは必ず着用され、ハイウエストのラインまでしかないこの小さなコルセットは、胸を大きく持ち上げることが出来、これによって大きくあいた襟ぐりから美しい胸元を覗かせていました。


当初シュミーズ・ドレスはワンピース式で、引き締め紐によってハイウエストのラインを強調していましたが、後にボディスとスカートとが別々に縫われ、縫い目の所にサッシュを巻くことが基本とされました。中には背中だけが縫い付けられ、スカートの両脇はウエストラインからかなり下まで縫われておらず、長い紐の付いたスカートの前面の端を後ろに引いて、背中もしくは一周回りして前で紐を結ぶといった、少し複雑な構造のものも存在しました。
袖は長袖や半袖、小さなパフスリーブなど様々なものが見られますが、上がパフスリーブで下が手の甲が隠れる程の長袖(ジュリエット・スリーブ)といったものも特徴的です。


襟ぐりはスクエア・カットもしくはV字型のものが多く、多数の肖像画からも分かるように今にも胸がはだけそうなほど露出しています。貴婦人達がこの官能的なドレスを好むようになった為に、当時の散歩道であるチュイルリー庭園ではよく痴漢が出没するようになったとか。その上過度に肌を露出したシュミーズ・ドレスの流行は、小氷河期と呼ばれるほどのフランスの気候の中、病人を増やし死亡率を上昇させたとも言われます。

No.2 アントワーヌ=ジャン・グロ 「クリスティーヌ・ボワイエの肖像」 - 1800年

スクエア・カットのシュミーズ・ドレス

ウエストラインを強調させるために二本のコードが巻かれている。

"No.1" の肖像画では演出として裸足を晒しているが、この頃は白一色のシュミーズ・ドレスに

アクセントを添える為に様々な色彩の靴が好まれた。

この肖像画ではサテン製のフラットシューズを履いている。

No.3 ピエール=ポール・プリュードン 「皇后ジョゼフィーヌの肖像」 - 1805年

シュミーズ・ドレスを纏った皇后ジョゼフィーヌ。

V字に大きく開いた襟ぐりによって胸の谷間が強調されている。

ウエストには朱色のサッシュ、裾にはフリンジ飾り。

ギリシア風の装飾品として三本のフィレが頭に飾られている。

防寒として当時愛用されていたインド産の大型ショールは、白一色のシュミーズ・ドレスの上に纏う事で、ショールの美しい色彩や模様がアクセントとなり、貴婦人達は外衣兼装飾品といった形でこのショールを肩にかけていました。しかし東方貿易が盛んだったとはいえ、当時インド産のショールは高価で数が少ない為、無地のショールを代用することもありました。


スペンサーやルダンゴト(前者はウエストラインまでの上着、後者は床丈もしくは丈長のコートでイギリスではペリースとも呼ばれる)も当時の流行の一つで、両者共紳士服を元としたデザインが特徴的です。スペンサーは1790年代、ルダンゴトは1780年代に既に存在しており、それ以前の男性服から着想を得たものは乗馬服のみとされています。頼りなさげで物憂げな女性が好まれた当時、男性的なイメージを持つこの女性用コートの存在は大変興味深いものです。


この頃の肖像画やファッションプレートで特に目を引くのは、18世紀に比べ極端に簡素になった髪形でしょう。女性たちは18世紀末から髪粉を捨て、ベリーショートに近い様な髪型へとなりますが、後にセンター分けの高く結い上げたシニョンに、巻き毛をこめかみの辺りに垂らした髪型が流行となります。頭飾りにおいてはボンネットやベレーなど様々なものが存在しますが、特にターバンやスカーフなどを巻きつけたスタイルは異国趣味を最も感じさせます。


この時代では装飾品を一切付けず、極力シンプルな装いが理想的とされていた為、肖像画に描かれている女性たちの多くはイヤリングもネックレスも付けていません。では宝飾品が存在しなかったのかと言う訳では無く、戴冠式などの公式の場においてはジュエリーは社会的地位を現す装飾品として重視されました。特に古典様式に伴い、ナポレオンの后ジョゼフィーヌによってカメオが人気となります。


18世紀のドレスには一対のポケットが存在しましたが、シュミーズ・ドレスの流行と共にポケットは無くなり、そのかわりにレティキュールと呼ばれる小さなバックを持ち歩くようになった事もこの時代の特徴です。シュミーズ・ドレスの流行が終わり、再びスカートにポケット用のスリットが開けられても、レティキュールは19世紀を通して、女性達を魅了し続ける事となります。

No.4 左~右 イギリスのファッションプレート - 1807年 1811年 1807年

左:正装用のシュミーズ・ドレス(左) 軽騎兵風のスペンサー(右)

右の女性に関しては頭にインド由来のターバンを巻いている。

 

中央:日昼用もしくは馬車用の衣装

ルダンゴトを着た女性。首にはパラティヌが掛けられ、手にはレティキュールを持っている。

 

右:舞踏会用のシュミーズ・ドレス(左) 冬用の衣装(右)

右の女性のルダンゴトの襟には17世紀初期の宮廷衣装を思わせる上向きの襟飾りが施され、

サッシュによってウエストラインを強調させている。

やがてシュミーズ・ドレスに様々な色調のものが加わります。相変わらず白は常に人気を博していましたが、サテンやベルベットなどで作られた濃い赤や薔薇色、黒などといったこれらのシュミーズ・ドレスは、白一色では飽きてしまった貴婦人達の心を満たしてくれたのでしょう。1810年代になるとラッフルや花飾りといった派手な装飾が裾に施されるようになり、中にはインド産ショールのペーズリー柄を裾に使うこともありました。


スカートのシルエットにも注目です。1810年代中頃からは、これまでの筒型のシルエットから、スカートの前面をすっきりとした平らにする事によって、ゆとり分を後方に集めてひだを寄せたと同時に、シルエットは細い円錐形の様な形へと変わります。以前の肌着のようにさえ見えたシュミーズ・ドレスは、この時に漸くドレスらしい雰囲気が伺えるようになります。


昼間の普段着は首回りが詰んだものを、舞踏会などの公式の場には襟ぐりが大きく開いたものが好まれ、当時の流行の一つにベッツィーと呼ばれる襟が存在します。エリザベス朝時代のラフを思わせるこのベッツィーは、当時の女性たちの首元を彩る役割を果たしていました。公式の場にて着用する際のシュミーズ・ドレスには、これまた17世紀初頭の貴婦人たちを思わせる様な上向きのレース飾りが施されています。

No.5 左~右 イギリスのファッションプレート - 全て1817年

左:イヴニング・ドレス

二枚重ねになったスカートが特徴的で、紗のオーバースカートによって円錐形のラインが表現されている。

裾に施された幾つものドレープが花飾りと相まってひたすた華やかな印象。襟ぐりのバンド状のレース飾りも特徴的。

 

中央:オペラ・ドレス

ブルーのシュミーズ・ドレス。レースや花飾りといった装飾もそうだが、パフスリーブの凝ったデザインにも目を引く。

この頃の衣装には手袋が欠かさず着用され、屋内でも屋外でも食事の時以外は手袋を外す事は決してなかった。

当時の貴婦人達はドレスの袖によって短い手袋や長い手袋を使い分けていた。

 

右:日昼用の衣装

ラベンダー色のスペンサーを着た女性。首にはベッツィーを着けている。

 

復古王政の時代が幕を開け1820年代にさしかかると、ブルボン家が復活したこともあってか古典様式から着想を得た服飾は次第に忘れ去られ、色彩は以前よりも増して豊かになり、多種多様なレースがドレスに彩を与えるようになります。通常のウエストラインのボディスに、ロココ時代を彷彿とさせる様なたっぷりとしたスカートがバッスルによって表現され、袖は成長するかの様に膨らみ、装飾過剰な大きな帽子を被った女性たちの姿はまさにブーケさながらでした。


1820年代初期はまだシュミーズ・ドレスの名残も見られましたが、後半になるにつれハイウエストだったラインは徐々に通常の高さに戻り、再びV字型の尖ったウエストラインが強調されます。この頃のスカートにはラッフルやリボン飾りなど多くの装飾が施され、当初はゴアーを入れたり、ウエストにギャザーやプリーツを入れることによってボリュームが出されていましたが、後にバッスルが加わるようになると、裾が広がると同時に丈が短くなり、踝が見えるようになります。

No.6 左.右 イギリスのファッションプレート - 全て1822年

「左」

左:イヴニング・ドレス

右:日昼用の衣装

 

この頃のウエストラインは通常のラインよりも少々高めだが左のイヴニング・ドレスに注目。

ボディスのV字型のラインを際立たせる為に、逆三角形の装飾が施されている。

 

「右」

左:日昼用の衣装(スペンサー)

右:イヴニング・ドレス

 

1820年代初期のボンネットはこめかみの辺りに垂らされた巻き毛を生かすために、髪型に沿った形をしている。

 

これらのドレスはスカートの後方にギャザーを入れる事によって膨らみが出されている。

ウエストを引き立てる為にサッシュやベルトを巻き、もしくはドレス自体に引き締め紐が付いていた。

 

この頃の大抵のドレスは背開きのワンピース式になっており、ボディスのデザインに関してはギャザーが寄せられたバイアス裁ちの共布が、左右の袖ぐりに縫い付けられ胸の前で絞っているもの、二枚の共布を肩から斜めに下ろしウエストラインに縫い付けられたものなど、胸元や逆三角形のボディスを強調する際、様々な工夫がなされたことが伺えます。コルセットによって作り出されたほっそりとしたウエストラインを強調させる為にベルトが巻かれることもありました。


袖に関しても興味深いものばかりです。広がったスカートと比例するかの様に大きく膨らみ始めた袖は、パフスリーブからレッグ・オブ・マトン・スリーブ(羊肉の足)と呼ばれる袖まで、多くの種類が存在します。これらの袖は膨らみを保つために堅い裏地を付けたり、羽毛をいれたパフスリーブの下着を着用していました。


袖ぐりが肩から下がっている為に、襟ぐりのラインは正面からみると直線的で、美しいなで肩が際立ちます。胸元が大きく開き肩が露出したデザインは、この時代の宮廷衣装によく見られるデザインですが、日常着では首元が詰んだシャツにスカート、ウエストにはベルトといったスタイルが基本でした。


髪型に関してもマリー・アントワネットの時代の様な高く結い上げたものが特徴的です。ソーセージ状にカールされた髪が額の両端に沢山付けられ、頭上には幾つかの束に分けられた髪が、まるでプレゼントのラッピングかの様に表現されています。そこに大きな羽飾りやリボン、花が飾られ、そして何といっても爆発的に装飾された大きなブリムの帽子はこの頃の服飾を象徴するものです。

No.7 左~右 ストックホルムで出版されたファッションプレート - 1828年 1827年 1828年

左:舞踏会用のドレス(左) 日昼用のドレス(右)

この頃のウエストラインは通常の高さに戻り、スカートはバッスルによって膨らみが出されている。

舞踏会用のドレスに関しては足首が丸見えになる程、丈が短く作られ、

バイアス裁ちにした布地を中央で絞った胸元のデザインによって胸の膨らみが強調されている。

特にトゥシューズの様な舞踏用の靴にも注目してほしい。

隣のドレスの袖にも注目。短いパフスリーブを透ける生地で覆ったレッグ・オブ・マトン型の袖はこの頃の流行の一つだった。

 

中央:両者共に日昼用の衣装

レッグ・オブ・マトン・スリーブの衣装を纏った二人の女性

右の女性は衣装と共布のペルリーヌ(肩掛け)を羽織っているように見える。

 

右:両者共に日昼用の衣装

左の女性のネックラインは直線的に横に広がった襟ぐりが多い中、V字型になっている。

襟ぐりの中から下着を覗かせ、首にはベッツィーが着けられている。

1830年代にはこのスタイルがまた一段と大きくなり、袖は最大級に膨らみ、スカートの裾もより大きく広がって、ウエストはまるでスズメバチの様に一層締め付けられることとなります。大きな袖には骨組みや羽毛が入れられ、スカートは何重にも重ねられたペティコートによって広がりが出されていました。特にペルリーヌ(肩掛け)は肩のラインを強調させるために重宝されました。


舞踏会用のドレスは胸元を覗かせていましたが、日常着では通常の襟元まで詰んだ下着を襟ぐりから覗かせることによって胸元を隠していました。この頃の外套は大きくなりすぎた袖のために体の線に沿ったコートを着ることは出来ず、代わりに腕を出す為のスリットが開けられたマントが流行していました。

No.8 左.右 ストックホルムで出版されたファッションプレート - 1834年 1835年

左:両者共イヴニング・ドレス

この頃のドレスは1820年代後半のドレスの特徴が最も顕著になった時代だった。

パフスリーブの袖はバルーン・スリーブさながらに膨張し、スカートは釣鐘型に大きく膨れた。

貴婦人達は何重にも重なったペティコートによってスカートを膨らましていた為、その重量はかなりの物だったに違いない。

左の女性は外衣としてケープを纏っている。(髪を崩さない為にフードには骨組みが組み込まれている。)

 

右:日昼用の衣装

1820年代後半ではブリムの大きい帽子や華やかなレースボンネットが主流だったが、

1830年代になると顔の上部を覆った大きなつばが特徴的なボンネットが流行となる。

(このファッションプレートにはペルリーヌも含む様々なボンネットが掲載されている。)

この女性が纏うドレスは袖ぐりから肘までが大きなパフスリーブ、肘から手首までがぴったりと腕に沿った袖になっており、

肩を覆うケープカラーが肩幅をより一層大きなものへと見せている。

No.9 様々なマント - 1836年

しかし1837年頃には袖の膨張は止まり、やがて退化するかの様に小さくなります。しかし途端に細くなった訳では無く、最初は袖付けから10センチ程度下がった所にひだを寄せ、パフスリーブの膨らみを抑えていただけでしたが、1840年代初期までには細くまっすぐな袖へと変化します。

 

1837年といえばイギリスではヴィクトリア女王が即位した年です。無軌道な貴族を嫌った女王は国内の秩序を取り戻そうと改革を起こし、この頃のイギリスでは禁欲的であることが望まれるようになります。男性は性的な冗談をしてはならず、貴族男性は宮廷の催しに自身の愛妾を連れてきてはならない。女性に関しては男性よりも一層厳しく、身だしなみに関して女性は踝より上を隠すことを義務付けられます。


その影響もあってか、以前のドレスには丈が短いスカートや脚線がはっきりと見て取れるものが多数存在したのに対し、1840年代のドレスは幾重にも重ねられたペティコートによって膨らみが出されたスカートがしっかりと脚を隠し、イヴニング・ドレスを除けばほとんどのドレスの胸元は肌が見えないようにきっちりと閉ざされています。


髪型に関しては1830年代半ばまで頭上に高く結い上げたスタイルが特徴的でしたが、1830年代末からはセンター分けに梳かした髪を耳の前で一纏めにし、首筋の所で結い上げた髪型となり、1840年代になると縦ロールを顔の両側に垂らした髪型も現れます。
1840年代のボンネットは髪型に合わせ、頭頂部が平らな小型のボンネットが主流となります。

 

ウェディング・ドレスが白と定着したのもこの頃の出来事です。1840年、ヴィクトリア女王がアルバート公との結婚の際、オレンジ花で彩られた白いサテン製のドレスで登場し、その姿は無垢と純潔の象徴とされ、ここから花嫁衣裳は白という伝統が生まれます。

No.10 左~右 ストックホルムで出版されたファッションプレート - 1839年 1841年 1843年

左:両者共に日昼用のドレス

左の女性に注目。1830年代初期のドレスに比べて袖は小さくなり、袖ぐりから下は二重のフリルが施され、そこからパフスリーブへと繋がっている。

この頃の髪型は耳の前まで髪を梳かし付けているのを特徴とした為、ボンネットにも耳の周りが強調される様につばの内側に集中して花飾りが施されている。

隣の女性はドレスの上にレースのショールを羽織っているが、1830年代初期にはショールやケープ、マントは膨れ上がりすぎた袖に伴って

流行していたが1830年代後半から袖が細くなった後でもこれらの外衣は貴婦人達を魅了し続けた。

 

中央:両者共にイヴニング・ドレス

美しい正装用のドレスを纏った二人の女性。小さくなった袖にも注目だが特に左の女性の髪型にもこの時代の流行が見られる。

頭飾りがこめかみから縦ロールが垂れた髪型に沿うように施されており、

これは今まで「上」に飾り立てていた髪型から、この頃は「下」に飾り立てるようになったことを顕著に表している。

この頃のイヴニング・ドレスのボディスは1830年代のものとデザインはあまり変わらない。

ギャザーを寄せたバイアス裁ちの布地によって大きく開いたネックラインが強調されている。

 

右:日昼用のドレス(左)少女服(中央)イヴニング・ドレス(右)

左の女性の袖にはかつての巨大なパフスリーブの面影は一切無く、完全な長袖となっている。

縦ロールの髪型の出現と共にボンネットは頭上が平らになり、耳の周りにゆとり分が出来た。

パラソルにも注目してほしい。この「マルキーズ」と呼ばれるパラソルは開いた瞬間、蝶番によって自動的に折れ曲がるようになっている。

日差しの強い日や西日の時など、貴婦人達にとって実用的なデザインだったのかもしれない。

1850年代、ナポレオン3世が統治する第二帝政の時代に入るとある二つの革新的な出来事が起こります。一つはミシンの誕生、もう一つはオートクチュールの誕生です。


ミシンの発明者であるイライアス・ハウは1855年、ミシンを製品化した上に大量生産をすることにまで成功し、服飾に画期的な変化を及ぼす事となります。これまでの布製品(ベッドのシーツやカーテン、テーブルクロスなど)も全て手縫いだった訳ですから、非常に偉大な発明である事がお分かりになるでしょう。しかししばらくの間は生産に時間を費やす上、高価であった為、一般階級に広まるのはこの頃から数十年後の事でした。


オートクチュールの父とされるシャルル・フレデリック・ウォルトがド・ラ・ペ通り7番地にメゾンを開いたのが1857年。これまでのドレス製作はあくまで依頼主からの受注製作でしたが、ウォルトは年に4回新作ドレスを発表し顧客やバイヤーに披露、そして注文を受け付けるといった能動的な方式を生み出します。これまでのドレス製作は職人が匿名で行っていたものでしたが、彼は制作したドレスに初めて自身のサインを記し、その上ドレスに支払われていた生地や装飾などの材費にデザイン料を付け加えたことでも知られ、ウォルトの活躍により、この頃になって初めてファッションデザイナーという職種が確立されたのでした。


美貌の皇妃として知られるナポレオン3世妃ウージェニー・ド・モンティッジョは自身の衣装デザイナーとしてウォルトを見出し、これによってヨーロッパ各国の皇室、王室が次々にウォルトの顧客となります。1870年代には七百もの店舗を構え、19世紀末には日本の皇室から注文を受けドレスを製作するなど、19世紀のファッション界にて彼はクチュリエとしての地位を不動のものとし、現在のシャネルやディオールなどのファッションブランドの基盤を作り上げたのです。

No.11 フランツ・クサーヴァー・ヴィンターハルター 「皇后ウージェニーと宮廷の貴婦人達」 - 1855年

当時、ヨーロッパ各国の皇室・王室御用達の肖像画家だったヴィンターハルターの描いた作品。

この絵画に描かれているドレス全て、ウォルトによるデザインとされている。

 

この時代のドレスはウージェニー皇后の影響により、レースの重要性が抜群に上昇した。

これは皇妃がマリー・アントワネットの暮らしに憧れを抱いていたことも影響しており、

当時の服飾には何処と無くロココ時代を彷彿とさせるものが多く見られる。

こうした1850年代という華々しい時代の中、ドレスは様々な進化を遂げます。


先述した通り、1840年代のスカートは何枚にも重ねたペティコートによって膨らみが出されていましたが、1850年代に入ると18世紀以来の再登場となるフープが活躍する事となります。クリノリンという名称で親しまれるこのフープは、モスリン製のペティコートに籐もしくは鯨のヒゲの骨組みを差し込んだアンダーウェアで、これまでの女性たちは幾重ものペティコートの重みに悩まされていましたが、軽量なクリノリン一つでスカートが膨らませるというこの方法は、女性たちの負担を大幅に軽減してくれたことでしょう。後に時計のゼンマイ用の鋼鉄を使ったクリノリンが考案され、一般に広く普及します。


しかしこのクリノリンにもデメリットが生じます。女性は踝から上を晒してはならず、以前のスカートの下にはペティコートを何枚も履いていた為、スカートの裾が捲れても脚が見えることはありませんでしたが、クリノリン一つとなったら裾が捲れた際、脚が剥き出しになってしまうではありませんか。当時の女性たちにとってこれは人前で裸体になるようなものと変わらなかったのです。


とは言ってもフープは欠かせない存在となっていた為に、女性たちは道徳を選ぶかファッション性を選ぶか悩み続けますが、結局はファッション性が優先される事になります。うっかり脚が見えてしまった時を考えて、靴やストッキングは以前よりも一層華やかなものが着用されました。(後にはあえて裾を引き上げる装置が施されたスカートに、足首が見えた丈の短いクリノリン・スカ-トなども見られるようになります。)

No.12 ストックホルムで出版されたファッションプレート - 1852年

様々な日昼用ドレス

 

バスク型のジャケット(ボディス)、パゴダ型の袖、スカートに数段のフラウンスを縫い付けたスタイルは

この頃の昼用ドレスによく見られるデザインであった。

V字型に大きく開いた胸元はアンダーブラウスによって隠されている。

パゴダ袖から覗くレース飾りは何処と無く18世紀の袖飾りアンガジャントを思い出させる。

1850年代の昼用のドレスには袖口に特徴が見られます。1840年代後半から袖口が大きく広がりパゴダ型となった為、そこからドレスの下に着たアンダーブラウスの袖もしくはレース飾りを覗かせていました。

 

昼用ドレスもイヴニング・ドレスも含め、この頃のスカートには何段ものフラウンスが施されているのがよく見られます。フラウンスによってスカートをふんわりと表現する為に通常は3段、イヴニング・ドレスでは例によって11段以上ものフラウンスが華やかに縫い付けられていました。

 

昼用のドレスはツーピースに分かれたものが多く、バスク型のボディス(ジャケット)とスカートとに分かれたデザインが特徴的で、バスク部分の縁とスカートのフラウンスを同じデザインにすることによって統一性を持たせ、釣鐘型のシルエットを際立たせています。

 

軍服を元としてデザインされた昼用ドレスも第二帝政期特有のものです。特に1848年のイタリア独立戦争にてフランス歩兵部隊として活躍したズアーブ兵の軍服の影響から、ジャケットやスカートに毛皮やブレードといった軍服風の装飾が施されるようになり、これらの衣装は1810年代~1820年代のルダンゴトやスペンサーを思い出させます。

 

イヴニング・ドレスは相変わらずデコルテが大きく開いたデザインで、ギャザーをよせたバイアス裁ちの布地を左右の肩に縫い付けることで胸元を強調したもの、レースやフリルといった装飾をボディスの正面にV字型に縫い付けることによって逆三角形に尖ったボディスのシルエットを強調したもの、襟ぐりに袖が隠れる程の大きなレースを飾ることによって、なで肩のラインを際立たせたもの等、それ以前のドレスにも見られた装飾に加え、当時のファッションプレートには様々な工夫が凝らされたドレスが紹介されています。

No.13 左~右 ヘルシンボリで出版されたファッションプレート - 全て1858年

左:両者共に日昼用のドレス

 

1850年代後期のドレスは初期のものと比べて変化が見られる。

パゴダ袖はますます大きさを増しベル・スリーブとなり、大きく膨らんだアンダースリーブが袖口から覗いている。

1830年代後期からヴィクトリア女王の影響により小さく萎んでいった袖は、今度はロココ好きのウージェニー皇后によって再び大きくなった。

 

この頃は1840年代のスパニエル犬を思わせる様な縦ロールの髪型は既に忘れ去られ、

ウージェニー皇后の影響により、こめかみの位置から髪を外に膨らまし、頭の後方で結い上げたスタイルが流行していた。

横顔が完全に隠れていたこれまでのボンネットは、縁が髪型に合わせ頭の後方に被さるようになり、横顔がはっきりと分かるようになった。

 

 

中央:イヴニング・ドレス(奥にバーヌースを着た女性)

 

これを御覧頂ければボディスの様々なデザインがお分かりになると思う。この頃はなで肩のラインを際立たせるために

襟ぐりから下にかけて、ほとんど袖が見えないほどの大きな装飾を施していた。

 

手前のピンクのクリノリン・ドレスは、プリーツを寄せた胸周りの布地の縁にフラウンスと同じフリンジを施す事によってなだらかな肩のラインを演出している。

緑色のクリノリン・ドレスのボディスは一見肩掛けを羽織っているかの様な不思議なデザインだ。

ボディスに沿うように縫い付けられ、お腹の所でクロスさせ、そのままスカートの裾まで繋がっている。

 

奥の女性が纏うフード付きのマントは、当時「ビュルヌー」(バーヌースとも言われる)と呼ばれ人気を博していた。

バーヌースの他にもパゴダ型の袖が付いたマントや、ウエストに沿っていないジャケットなど、

この頃は身体の線に沿っていない上着(外衣)が多く見られる。

 

 

右:両者共に日昼用の衣装

 

左の女性のガウンの袖に注目。まるで日本の着物の様に大きく作られ、広く開いたスリットからアンダースリーブを覗かせている。

奥の女性が被るブリムがゆるやかなカープを描いた大きな帽子もこの頃の流行の一つで

ヴィンターハルター作「皇后ウージェニーと宮廷の貴婦人達」(No.11)の中にも同じ帽子が描かれている。

1860年代には釣鐘型のシルエットに変化が訪れます。これまでのスカートはウエストにギャザーを均等に寄せて膨らみが出されていましたが、1860年代になるとスカートのウエストから幅の広いボックスプリーツもしくは一方向にプリーツを深く畳み、これによってスカートの張り出しが抑えられ、今までの釣鐘型から円錐形へと変わります。


1860年代後期までにはスカートの正面は平らになり、そして後方に裾を引くようになります。この頃のクリノリンは初期のものと形が変わり、スカートの正面を平らにする為に前面の骨組みは減らされ、かわりに裾を引くために後方に集中して骨組みが用いられるようになります。裾を際立たせるためにウエストから長いリボンやレース飾りを垂らしたりなど様々な工夫がなされました。

No.14 舞踏会用のドレス - 1860年代初頭

このドレスにはスカートにボックスプリーツが畳まれている為、スカートの輪郭が直線的である。

この頃のスカートは全体の膨らみが抑えられ、特に正面が平らになり、かわりに後方に裾を引くようになった。

No.15 左.右 オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ一世の妃エリザベートのポートレート - 1862年 1867年

今や誰もが知る悲劇の皇妃エリザベート。このポートレートの中で身に纏うのは

まさにプリーツによって膨らみが抑えられたスタイルのクリノリン・ドレス。

この頃のドレスはスカートの円錐型のシルエットを強調する為にウエストラインが高く、

左の写真のエリザベートはサッシュベルトを巻き、スカートのラインと極端に細いウエストを強調している。

(スカートのシルエットを際立たせる為にA字型に施されたフリンジ飾りも特徴的。)

 

右の写真はエリザベートがハンガリー王妃として戴冠した際のドレス姿。

No.16 オーギュスト・トゥールムーシュ 「ラブレター」- 1863年

ハイウエストの円錐型スカートに、正面がA字型に開いたジャケット。

ブレードが施されたジャケットのデザインは、

まさしくズアーブ兵の軍服をヒントに作られたものだろう。

No.17 エリザベート皇后のポートレート - 1865年

窓辺から顔を覗かせる皇后エリザベート。

彼女の頭上を飾る、ブリムがカーブを描き羽飾りの付いた小さな帽子はウージェニー・ハットと呼ばれ、当時の流行の一つだった。

この頃のドレスの袖はパゴダ型も含め、筒型もよく見られる。

やがてクリノリン・ブームは終わりを迎えます。裾の広がったスカートに暖炉の火が燃え移るといった事故が多発する中、この様な事態を見かねた皇妃ウージェニーが公式の場においてクリノリンの着用を禁止し、これによって人々の心はクリノリンから離れて行きます。


クリノリンは1868年頃まで着用されていましたが、1870年代に入るまでの数年間はフープを使用せずゴアーもしくはスカート自体のフレアによって膨らみを出し、この頃のドレスはスカートの幅が以前よりも狭くなり、腰回りがすっきりとして、ウエストにプリーツもギャザーも寄せていないドレスが多数見られます。


中には極端に簡素なドレスも登場し、このドレスは絵画に多数描かれているものの、後にクリノレットの登場によって短期間しか着用されることはありませんでした。

No.18 左.右 クリノリンの有無によるドレスの変化 - 1864年→1868年

スカートにボックスプリーツが畳まれたクリノリン・ドレス(左)と、フープを使わずに膨らみが出されたフレア・スカート(右)。

1870年代に入ると普仏戦争をきっかけに第二帝政は崩壊。時代は第三共和制へと変わります。第二帝政の崩壊直後、フランスのファッションは一時停滞しましたが、後にクリノレットの登場そしてバッスルの再登場によって1870年代独特のスタイルが生まれる事となります。

 

バッスル・ドレスに関して「いかなる場合においても、1種類の生地だけでドレスを作らないこと。すべてのドレスは、例外なく2種類以上の生地が使われるべき」(ナンシー・ブラッドフィールド著「貴婦人のドレスデザイン」より抜粋)

 

上記の言葉の通り、ミシンの普及によって様々な色彩の素材や質感、柄の違う生地をフラウンスやフリルなどに使用する事が良しとされたこのスタイルは、「ファッションの歴史」の著者ブランシュ・ペイン曰く「七十年代の服装は史上最悪だった」とされています。理由は多色の布地が悪趣味なまでに使用された為に統一性に欠ける上、1870年代という時代の中、後期になるにつれドレスのシルエットがどんどんタイトになって行き女性の体を歩く事さえままならない様に束縛したという点で、このバッスル・スタイルは批判の対象となりました。

しかし当時のデザイナー、ウォルトなどによって残された上品で美しいバッスル・ドレスはどの時代のドレスにも負けず、言わばこのバッスル・スタイルをいかに気品高く見せるか、そこがデザイナーの腕の見せ所だったのです。


1870年代のドレスは年代順に3つのタイプが存在します。


○1870年代初期


1860年代のドレスによく見られるウエストから垂れた長いリボンやレース飾りの影響から、スカートの後方に布を寄せることによって膨らみが出されたバッスル・スタイルが誕生します。この頃のスカートはクリノレット(クリノリンとバッスルの中間にあたるアンダーウェア。半円状もしくは円状の骨組みを用いることによってヒップラインを強調しつつ全体的に膨らみを出す。)によって膨らみが出されたり、スカート後方の膨らみ部分のみに骨組みが入ったバッスルが縫いつけられていたものも存在しました。


○1870年代中期


クイラス・ボディス(ボディスの裾がヒップに届くほど長いスタイル)が登場し、後にその延長線上にあたるプリンセス・ライン(ウエストに切り替えの無いスタイル)が人気を博します。スカートはトレーンを引いており、後方は骨組みの入ったバッスルによってヒップの膨らみが出されていました。


○1870年代後期


この頃のドレスはプリーツを畳んだスカートの上にオーバードレスを重ねたものが多く見られ、ドレスのシルエットは極端に細い形へと変化し、歩くのが困難なほど窮屈なものへとなります。昼用のドレスもイヴニング・ドレスも含めトレーンを引いたものが多く見られますが、特に昼用のドレスは完全に筒型のシルエットへと変化したものも存在します。

No.19 左~右 1870年代初期のファッションプレート - 1872年 1873年 1873年

初期のバッスル・スタイルはスカートがふんわりと膨らみ、この膨らみはクリノレット等によって表現されている。

バッスル・スタイルの特徴はスカートに施された様々なドレープ、プリーツ、フラウンスや、それぞれの異なる生地や素材によって作り出されたデコレーションで、

これらの装飾は1870年代のミシンの普及により可能となった為の流行であった。

 

スカートが装飾過剰になった為に重みが増し、1870年代のドレスはツーピースのものが多く見られる。

このファッションプレートにはガウン自体がバッスル・スタイルになったもの、

バッスル・スタイルのスカートを際立たせる為にバスク型のボディスを着たもの等、様々なツーピースが描かれている

 

初期の袖はクリノリン・ドレスの影響もあってかパゴダ型が多い。

襟ぐりに関してはスクエア・カットもしくはV字型の襟に上向きのフリルが施されたデザインが好まれた様だが、

左のファッションプレートのブルーのドレスを着た女性の襟はクリノリンの時代を思わせるフラットカラーである。

イヴニング・ドレスの胸元は1860年代の胸元を大きく開いた襟ぐりから変わらなかった。

 

1860年代の影響からウエストラインが高いことも初期の特徴である。

No.20 左~右 1870年代中期のファッションプレート - 1875年 1875年 1870年代

中期のバッスル・スタイルは初期に比べてシルエットが若干細くなり、ボディスは身体に沿ったものが多く、袖も腕のラインに合わせている。

中央のファッションプレートに描かれているのはクイラス・ボディスとスカートとに分かれたツーピースのバッスル・ドレス、

右のファッションプレートのパステルブルーのドレスはプリンセス・ラインのワンピース。

これらのボディスは首からボディスの裾までボタン止めになっている。

この頃のスカートは骨組みが組み込まれたバッスルによって膨らみが出されていた。

 

スカートのトレーンは裏地に通された引き締め紐によって独特の膨らみが表現されており、

トレーンを引いたドレスが多い為に、女性達は裾を片手で持ったり肩に掛けたりした。

 

左のファッションプレートにてパゴダ型の袖が付いた外衣(パルトー)を纏っている女性が描かれているが、

パゴダ型のジャケットやガウンはこの頃の流行で1890年代まで人気が衰えることは無かった。

No.21 左~右 1870年代後期~1880年代初期のファッションプレート - 1878年 1880年 1880年~1882年

後期に入るとドレスのシルエットは完全に筒型となり、女性達の身体を束縛するかのように細くなる。

初期のバッスル・ドレスは生地の量が多い為に脚に纏わりつくのがデメリットだったが、

後期のドレスはスカートが極端に細くなった為に歩幅が狭くなり、女性達はほとんど身動きすら取れない状態になってしまう。

この頃のドレスはプリーツやギャザーを寄せ縫いしたスカートに、クイラス・ボディスのオーバードレスを重ねたものが多く見られる。

プリンセス・ラインのものは基本ワンピース。ボディスの正面に長い胸当て状の飾りが施され、一見ガウンを纏っているように見えるものもある。

(ボディスの前面に装飾されている場合は、おそらく背開きと考えられる。)

 

ドレス自体の細長いシルエットを際立たせる為に下着は最小限に抑えられ、勿論コルセットは着用されていたが、ペティコートやバッスルを着用することが無くなった。

裾を引く場合は裏地にダスト・ラッフルが取り付けられ、これによって生地の擦れを防ぎペティコートの代わりを果たしてくれた。

 

このスタイルのドレスは1880年代初頭まで人気を博していた。

イヴニング・ドレスに関してはこの頃から前後とも深いV字型に開いた襟ぐりが流行する。

 

1880年代初期は1870年代後期の細長いシルエットが好まれていましたが、1884年頃までにスカートは膨らみ、骨組みが組み込まれたバッスルもしくはスカート自体に挿入された骨組みによってヒップラインが大きく盛り上がったドレスが特徴的となります。

1884年と言えばナポレオン法典により禁じられていた女性の離婚訴訟が認められ、これを機に次々と女権への認可が進められるようになった時代です。この頃の女性服は男性服への傾倒が多く見られ、言わば女性の社会進出を意味していたのでしょう。フェミニズム的な思想が投影されています。


この頃のスカートの膨らみは1870年代初期のバッスル・ドレスを彷彿とさせますが、1870年代初期のものとは明らかに違う特徴が見られます。


第一はウエストラインです。1870年代初期のドレスは1860年代のドレスの影響からハイウエストでしたが、1880年代のバッスル・ドレスはクイラス・ボディスやプリンセス・ラインの流れからウエストラインが通常よりも微妙に下がった位置となっています。(その為バッスルの突出位置にも変化が見られる。)


第二は袖ぐりの位置。1870年代のドレスは女性らしいなだらかな袖付けが好まれていましたが、1880年代のドレスは袖付けが男性服の影響から肩を強調したデザインになります。後の1890年代にはより大きく肩を強調したデザインが流行する為、1880年代のドレスはその兆候といった所でしょう。

 

明治時代、当時の社交場として名高い鹿鳴館に導入されたドレススタイルは、まさにこの1880年代のバッスル・スタイルでした。

No.22 左.右 1870年代初期のドレスと1880年代のドレス - 1872年→1886年

昼用ドレス、イヴニング・ドレス共にウエストラインが低くなり、袖付けにも変化が見られる。

1870年代のドレスはなで肩を強調しているが、1880年代になると肩の位置が明確になる。

昼用のドレスに関しては1880年代からハイネックが多数見られるようになる。

No.23 左.右 マルメで出版されたファッションプレート - 1885年 1884年

これらのドレスはスカートの上にオーバドレスのスカート部分をたくし上げ

ドレープを作ることによって、ヒップラインの膨らみが強調されている。

(スカート自体にドレープ状の装飾を縫いつけている場合もあった。)

 

右のファッションプレートのドレスはまさしく男性服を元としたデザインだろう。

女権の認可や女性服の改良運動、スポーツへの女性の参加に伴い、以前のドレスに比べて比較的シンプルな装いが好まれるようになった。

 

この頃の髪型はウェーブさせた髪を頭上に上げ、額には細かくカールさせた髪を垂らすのが流行だった。

その為1870年代の帽子やボンネットは小さめのものが多かったが、1880年代では髪型に合わせクラウンが高くなった。

しかし1880年代後期には女性がスポーツなどの屋外での活動に積極的に参加するようになった事もあり、自由な活動を妨げる「ドレス補正具」ことバッスルは小さく、もしくは完全に消え去り、1890年代では膨らみが無くなったスカートの代わりに、今度は袖が大きく膨らみ始めます。しかしコルセットは理想的なウエストを表現する為に手放すことはありませんでしたが、この頃のドレスはウエストに切り替えの無いすっきりとしたデザインが多数見られます。

 

スカートは裁断によって滑らかな裾広がりのフォルムを作り出し、畳んだひだを後方に寄せ、スカートの裏に丈夫な留め紐で固定することによって前面に皺が出来ないようにしていました。袖に関して1890年代初期は1880年代のボディスの肩が少し強調されただけでしたが、すぐに袖は膨張し始め、後に1830年代を思い出させる大きなパフスリーブやレッグ・オブ・マトン・スリーブが再び人気を博します。つい最近までスカートばかりが着目されてきた為に、この頃の女性たちは大きな袖のドレスに再び魅了されたのです。


袖は裏に麻と馬の毛で織った堅い布地、もしくは布地を数枚重ねる事によって膨らみが出され、女性たちは外衣を脱いだ際、髪形やドレスの皺よりも先に袖の膨らみを整えたと言われます。外衣は膨らんだ袖の上から着られるものも作られましたが、相変わらずマントやケープといった外衣は常に人気でした。


この頃の下着はドロワーズにもペティコートにも美しい刺繍やリボンがたっぷりと飾られ、特にタフタは高価である上に衣擦れの音が目立つため下着の素材として人気を博し、資産持ちである事を示す際、貴婦人達はわざわざスカートの裾を持ち上げてペティコートを見せていたと言われます。(貴婦人に憧れる平民の女性達はペティコートの下に紙を縫い付け、タフタの衣擦れの音を再現していたとか。)

No.24 左.右 マルメで出版されたファッションプレート - 1889年 1891年

このファッションプレートを御覧頂ければ袖の変化がお分かりになるだろう。

1891年のファッションプレートに描かれているドレスの袖はまさしくレッグ・オブ・マトン・スリーブである。

その他の袖として大きなパフスリーブからぴったりとした長袖へとつながっているデザインもよく見られるが、

この袖に関しては袖とパフスリーブが一対になっているものもあれば、基礎の長袖の上にパフスリーブを被せた仕組みのものも存在した。

 

1889年のドレスはまだスカートの下に小さなバッスルが入れられているように見えるが、1891年のものは完全にスカート自体の膨らみである。

No.25 左.右 ジョン・シンガー・サージェント 「Elizabeth Winthrop Chanler 」「Elsie Wagg」 - 両方共1893年

中央 ジャン・ベロー 「コンコルド広場のパリジェンヌ」 - 1890年頃

左.右

 

様々な袖。左のイヴニング・ドレスは濃い焦げ茶のドレスと共布で作られた大きなパフスリーブが施されている。

右のシフォンで作られた昼用ドレスの袖は、サテンの長袖の上にシフォンの膨らんだ袖を被せている。

しかしこれらの袖はあくまで一例に過ぎず、この頃は過去のドレスを踏襲したものがよく見られる上に、ドレスデザインも様々であったため

イヴニング・ドレスに関しては膨らんだ袖以外にもシンプルな長袖に七部袖、ノースリーブまで様々であった。

 

 

中央

 

1890年代の冬支度をしたパリジェンヌの姿。首にはドレスと同色のパラティヌを巻きつけ、片手でスカートの裾を持ち何処と無く得意気な面持ちである。

タフタ製の下着のシャリシャリとした音を歩く度に強調していたのだろう。

 

彼女の頭上を飾るのは比較的小さな頭飾りだが、この頃はブリムの広い平らな帽子が流行していた。

髪型に関しては梳かした髪を頭上に纏めたものが一般的だったが、これらの肖像画の女性達の髪型は実に様々である。

 

1890年代の最もポピュラーな娯楽はサイクリングであり、貴婦人も含め多くの女性達がこの屋外での活動を楽しみました。パリの女性達の間では自転車に乗る際、スカートが足手纏いになるためにブルーマーとジャケットという大胆な姿を好みましたが、イギリスではブルーマーが中々定着せず、イギリスの女性達はスカートのままでも乗れる車高の低い自転車が登場するまで乗ることはありませんでした。
ブルーマーというのは本来アメリア・ジェンクス・ブルーマー夫人なる人物が女性服改良の働きに伴って普及させたトルコ風のゆったりとしたズボンとスカートとを組み合わせた女性服で、1851年に彼女がロンドンに訪れた際、ブルーマーを纏った彼女の姿を批判する者もいれば賛美する者もいたりと当時の評判はバラバラでしたが(1850年代といえば魅力的なクリノリン・ドレスが流行していた頃)後の1860年代にこのブルーマーは水着として採用され、1890年代にはサイクリング用の衣装として流行します。


1890年代の水着に関しては1860年代の水着と比べて袖も裾もだいぶ短くなり、いくらか機能性が増したように思えます。当時の人気のスポーツであるテニスでは、女性用のセーラ服風にデザインされたテニスウェアが作られました。

No.26 海水浴を楽しむ女性 - 1893年

当時の海水浴は家で水着に着替えてから小屋の様な形の乗り物で海岸まで移動し、

浜辺に乗り物を止めて後部のドア(カーテン)を開けると、

誰にも着替えを見られないまますぐに海水浴を楽しめるという仕組みだった。

No.27 ブルーマーを履いた女性 - 1897年

丈の短いブルーマーに男性的なカンカン帽を被った女性。

このようにして19世紀の女性服は様々な変化を遂げ、多くの肖像画やファッションプレートによってその華々しい世界を見ることが出来ます。しかしドレスは制服ではありませんので、必ずしもこの時代にはこのスタイルのものしか存在しなかったという事はありえないでしょう。

ブルーマー夫人の様に流行に伴わない人も存在する訳ですから、これまで紹介させて頂いた服飾の歴史は、あくまでその時代個々の最先端の流行であって、全ての人々が同じ装いであったという訳ではありません。


とは言ってもこの時代のお洒落をする女性は当然、金銭面にゆとりのある方たちがほとんどのはずでしょうから、当時の貴婦人達が一体どんな風にスカートの裾を捲くって見せたり、扇ごしに魅惑的な視線を送っていたのか、この文章を通じてご想像して頂ければと思います。

参考文献

 

ブランシュ・ペイン著「ファッションの歴史」

ナンシー・ブラッドフィールド著「貴婦人のドレスデザイン」

深井晃子著「ファッションから名画を読む」